大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 昭和54年(ヨ)202号 決定

申請人

ソシエテ・デチユーデ・シヤンテイ・フイツク・エ・

アンデユストリエル・ドウ・リルードウーフランス

被申請人

帝国化学産業株式会社

外1名

上記当事者間の頭書仮処分申請事件につき、当裁判所は申請人において被申請人らに対し連帯保証金として金800万円の保証を供託することを条件として、次のとおり決定する。

主文

1  被申請人帝国化学産業株式会社は別紙目録記載の物品を製造し、販売してはならない。

2  被申請人ナガセ医薬品株式会社は別紙目録記載の物品を販売してはならない。

3  被申請人らの占有する前項の物品の占有を解いて、申請人の委任する管轄地方裁判所所属執行官にその保管を命ずる。

4  申請費用は被申請人らの負担とする。

理由

第1被保全権利の存否

1  申請人が左記特許権を有することは当事者間に争いがない。

(1)  発明の名称 称 新規な複素環式ベンズアミドの製法

(2)  出願 昭和40年1月13日(特願昭40-1291)

(3)  優先権 1964年(昭和39年)1月13日アメリカ合衆国出願にもとづく優先権主張

(4)  公告 昭和44年10月6日(特公昭44-23496)

(5)  登録 昭和45年4月11日

(6)  特許番号 第569,942号

(7)  特許請求の範囲

① 一般式

(式中Rは低級アルキルである。X、Y及びZは夫々水素、ハロゲン、低級アルコキシ、ニトロ、アミノ、低級アルキルアミノ、低級アルカノイルアミノ、シアノ、スルフアモイル、N-低級アルキルスルフアモイル、N、N-ジ(低級アルキル)スルフアモイル、トリハロメチル、低級アルキルチオ、低級アルキルスルフイニル、低級アルキルスルフオニル或はポリフルオロ低級アルキルスルフオニルである。)で示される2-アルコキシ安息香酸もしくはその反応性誘導体に一般式

(式中Rは低級アルキル、mは1或は2で、nは0或は1である)で示される複素環式アミンを作用させて一般式

(式中R、X、Z、R'、m及びnは前記と同じ意味である)で示される複素環式ベンズアミドを得ることを特徴とする新規な複素環式ベンズアミドの製法。((2)(3)(4)のクレームは省略。以下、(1)の発明を単に本件特許発明という。)

2  被申請人帝国化学産業が別紙目録記載の物品(一般名スルピリド。以下イ号薬品という。)を業として製造打錠して「シーグル」なる商品名を付し、これを被申請人ナガセ医薬品に一括売却し、同被申請人は昭和53年12月頃からこれを業として販売しはじめたこと、以上の事実も当事者間に争いがない。

ただ、被申請人らは、イ号薬品はラセミ体(dl体)のスルピリドであると主張するところ、申請人はこの点については明らかにこれを争つていない。

3  次に、その旋光性の点は暫らくおき、イ号薬品(スルピリド)が、本件特許発明の特許請求の範囲に一般式をもつて示されている目的物において、Rにメチル基(-CH3)、Xに水素、Yに水素、Zにスルフアモイル基(-SO2NH2)、R'にエチル基(-C2H5)、mに1、nに1をそれぞれ選び、かつ(2-メトキシ―5―スルフアモイルベンズアミドメチル)基の結合すべき位置として1―エチルピロリジン環の2位を選択した場合の化合物であること、すなわちN―〔(1―エチル―2―ピロリジニル)メチル〕―2―メトキシ―5―スルフアモイルベンズアミド(別の命名法によると1―エチル―2―(2―メトキシ―5―スルフアモイルベンズアミドメチル)ピロリジンもしくはN―〔(1―エチル―2―ピロニジル)メチル〕―5―スルフアモイル―0―アニサミドともいう)であることも当事者間に争いがない。

しかるところ、疏明によれば、スルピリドは本件特許の優先権主張日はもちろん日本における出願日である昭和40年1月13日の時点では未だ日本国内において公然知られていなかつた新規な物質であつたことが一応認められる。

また、本件特許が物を生産する方法の発明についてなされたものであることも明らかである。

そうすると、イ号薬品は本件特許発明と同じ方法によつて生産されたものと推定される(特許法104条)。

したがつて、イ号薬品の製造方法は本件特許発明の技術的範囲に属することが一応認められる。

4  ところが、被申請人らは、次のような理由により、イ号薬品の生産方法が前記のように推定されることを争い、かえつて、イ号薬品は本件特許発明の方法と別異の独自の方法によつて製造された物であると主張している(ただし、被申請人らはそのように主張するだけで、特段本件において具体的に被申請人帝国化学産業が採用している生産方法を開示したわけではない。)。

すなわち、被申請人らは次のとおり主張している。

(イ)  イ号薬品のスルピリドはラセミ体である。

(ロ)  しかるに、本件特許の出願経過をみると、出願当初の明細書には、スルピリドはd体、l体、dl体(ラセミ体)のいずれのスルピリドの開示もなく、昭和42年2月10日付手続補正書(第1次補正)において初めてd体とl体のスルピリドが開示された(実施例11.13参照)。また、ラセミ体スルピリドについては昭和44年2月24日付手続補正書(第6次補正)において初めてその実施例29としてその原料物質、反応手段とともに開示されその発明方法の完成をみたものである。

(ハ)  このように、本件特許発明はラセミ体スルピリドに関し当初未完成であつたものを第6次補正によつて完成させたものであり、このことはすなわち上記補正が要旨を変更したものであることを示すものである。したがつて、本件特許の出願日は特許法40条により昭和44年2月24日とみなされる。

(ニ)  しかるに、上記時点ではラセミ体スルピリドはすでに日本国内において公知であつた。

(ホ)  したがつて、本件特許発明は特許法104条所定の推定規定を援用するに足る要件を欠いている。

(ヘ)  なお、同じ物質であつてもそれがd体、l体、bl体のいずれであるかによつて生理学的活性が異なることは当業者に周知自明のことである(たとえば、l―グルタミン酸ソーダ―味の素―には旨味があるが、d体には全くこれがない。(1)―カルボンはハツカの匂いがするが(+)―カルボンはヒメウイキヨウの匂いがする。有機リン酸エステルの動物に対する毒性は(+)―体と(-)―体とで大きな差がある等々。)。したがつて、d体またはl体のスルピリドの開示があつたからといつて、直ちにbl体スルピリドの開示があつたということはできない。

5  そこで、以下、被申請人らの前記主張の当否について検討する。

(1)  まず、上記の争点をさらに整理する。

被申請人らの疏明(疏乙第4号証の1中の「甲第8号証」「甲第10号証」、同乙第6、第11号証)によると、スルピリドが文献によつて我国で公知となつたのは、本件第6次補正前、第1次補正後のことであることが一応認められる。もつとも、疏乙第4号証の1中の「甲第9号証」(ケミカルアブストラクト64巻3号3486ないし3488頁。昭和41年4月15日大仮府立図書館受入)は第1次補正前の公知文献ではあるが、これは本件特許のいわゆるパテントフアミリーの1つであつて、米国における第1国出願に基づくオランダ特許の抄録で、本件特許発明の特許請求の範囲と同じ一般式等の記載はあるが、スルピリドに関する記載はない。

したがつて、ここでの当事者の争点は、つまるところ、d体、l体のスルピリドが実施例の11、13として開示されたことについて当事者間に争いがない前記第一次補正の段階ですでにbl体すなわちラセミ体のスルピリドも開示されていたと解しうるか否かに帰着する。けだし、この段階でいまだラセミ体スルピリドの開示がなかつたと解さなければならないとすれば、被甲請人らの前記のような主張と論理が首肯できることになり、もし開示があつたと解しうるのであれば、第6次補正における実施例29のラセミ体スルピリドの開示は特段要旨変更とはならず、すでに開示された技術事項を明確にしたにすぎないこととなり、被申請人らの前記主張はこの点において失当となるからである(なお、前記文献公知の時期に照らすと、第1次補正におけるd体とl体のスルピリド開示が要旨変更となるものであるか否かは、本件について特許法104条を適用しうるか否かの点に特段影響を及ぼすものでないことは明らかである。)。

(2)  そこで、考えるに、

(イ) 本件特許発明の方法は一般式

RCOOH+R'NH2→RCONHR'+H2O

で表わされる反応にほかならず(ただし、実際は酸塩化物法または酸無水化物法による)、これは酸アミドのN―置換体の生成反応として周知のものであるから、いわゆる化学的類似方法である。すなわち、本件特許発明の方法自体は格別技術上新規なものではなく、専ら目的化合物が新規で有用であるがゆえに特許されたものにほかならない(現に、スルピリドが本件特許発明により初めて合成されかつ優れた薬効を有することが明らかにされた化合物であつて、視床下部交感神経中枢の興奮を抑制して胃血流を改善し、消化管粘膜の抵抗力を増強することにより粘膜組織の修復を促し、抗潰瘍作用を発揮し、従来の抗コリン剤と異なり焼灼潰瘍、酢酸潰瘍等に対し顕著な治癒促進効果を有するものであり、また潰瘍に伴う種々の消化器不安定症状をも改善するものであることは本件当事者間でも争いがない。)。

(ロ) そして、一般に化学的類似方法の発明については次のような理解が行われていることも当裁判所に顕著な事実である。すなわち、「通常、クレーム記載の目的物質を示す一般式は何千何万種類もの異なる化学構造式の物質を包含し表現しているのであるから(本件特許発明もその例外ではない。)、たとえ上記一般式に該当する物質であつても、一般にその詳細な説明欄で具体的に当該目的物質に関する性質、薬効その他の技術的事項に関する記載のない場合には、当該物質の製造方法はクレームの技術的範囲に属しないものと考えるべきである。したがつて、特許庁の審査段階においても、出願後の補正によつて新らたに上記のような事項が追加された場合は要旨を変更したものと解すべきである。」と。

そして、このような見解または取扱いが行なわれるのは、以下のような化学物質特有の性質に由来すると考えられる。すなわち、これら包括的な一般式に該当する膨大な数の物質がすべて同効とは限らず、なかには出願人の予期した作用効果を伴わないものや、あるいは予期しなかつた他の著効を顕わすものもある(後者のものはいわゆる選択発明として別途特許権が付与されうる)。したがつて、クレーム記載の目的物質の一般式に該当する物質のすべてを当該クレームの技術的範囲に属すると考えると、そこには出願人の予期しなかつた著効を有する物質も含まれていることがあり、かくては出願人(特許権利者)の保護が不当に厚くなる。以上のような点を配慮したものと考えられる。

そして、被申請人らの主張は以上のような理解または実情を背景としたものにほかならない。

(ハ) このように考えてくると、本件の場合も被申請人らの主張は一応は一定の合理性があるように思われないでもない。けだし、前記のような類似または均等物質相互間の効果(ことに生物学的活性)の予測不可能性は同一物質の異性体相互間においても原則として同様であると思われるからである(前示被申請人ら主張の事例参照)。

(ニ) しかし、それにもかかわらず、当裁判所は、本件については次のような理由により、前記のような一般的な見解は妥当しないと考える。すなわち、

たしかに、同一の構造式、示性式で表わされる物質であつてもその立体構造の異なる光学異性体の場合は互いにその効力ことに生物学的活性が異なる例の存することは被申請人ら主張のとおりである。しかし、(イ)被申請人ら指摘のエフエドリン(疏乙第8号証)やペニシリン誘導体(同第9、第10号証)の場合は複数の不斉炭素原子を有するジアステレオマーに関する場合であつて、スルピリドのように一個の不斉炭素原子により生ずる光学異性体の場合とは異なり、(ロ)またその他の挙示例(グルタミン酸、カルボン、有機リン酸エステル)も、本件のようにすでに両畳性体の効力がいずれも同じであることが明らかとなつているにもかかわらず、それらが等量に存するラセミ体の場合には異なる効力を示したような事例ではなく、異性体相互間ですでに互いに異効であることが明らかな場合であるか、遊離の各異性体だけでは効果を示さないが両者を混合するとはじめて効を奏するような例であつて(同第7号証)、いずれにしても正確には本件とは異なる場合である。むしろ疏明によれば、薬物の多くの場合、ラセミ体の効力は両対掌体の平均効力にほぼ等しく、両者間の拮抗作用は稀であることが一応認められる(疏甲第11、第12号証の各1、2、第12、第13号証)。

要するに、本件はd体とl体相互間の薬効に関する予測可能性の問題ではないのであつて、第1次補正の段階ですでに両異性体がそれぞれ同効のものとして開示されている場合にこれらが等量に存するラセミ体の開示ありと解すべきか否かの問題である。そして、このような場合は、さきに述べたとおり、むしろ蓋然性としては、遊離の各異性体の効力が全く消えたり、あるいは全く別異の効力を生ずるというようなことはないと考えるのが薬学上の一般的な通念にも合致すると思われる。

したがつて、本件の場合は前記のような一般的な見解は妥当しないと解するのが相当で、それゆえに第1次補正におけるd体、l体のスルピリドの開示は実質的にはラセミ体のスルピリドも開示していると解しうるところであつて、出願人の第6次補正における実施例29の追加は、これを追認し明確にしたにすぎず、特段要旨を変更したものではないと考えるべきである(換言すれば、出願人は第1次補正の段階ですでにラセミ体スルピリドについても当該技術の分野における通常の知識を有する者が容易に実施できる程度には開示していたと解しうる。特許法36条4項参照)。

現に、ラセミ体スルピリドはd体、l体の各スルピリドと同効でそれゆえにこそ出願人も後日前者を明確に開示し、被申請人らもこれを製造販売するにいたつたのであつて、このようなことが動かし難い事実として明らかになつた現在の時点で、なお前記被申請人ら主張のような一般的見解に固執することはかえつて化学的類似方法の発明に関する正しい理解と運用にもとるものと考えられる(それは結果的にはクレーム解釈にさいし極端な実施例主義におちついているものといわねばならず、一般式によるクレームを認めている特許庁の運用自体を否定してしまうことになるともいいうる。)。

(ホ) なお、申請人は、そのほか、第1次補正で追加された実施例21においてもラセミ体スルピリドは明確に開示されていると主張しており、疏明によれば、上記実施例21には、その前段に、1―エチル―2―(2―メトキシ―5―スルフアモイルベンズアミドメチル)ピロリジン塩酸塩、すなわち、スルピリドの塩酸塩を生成せしめる方法が記載され、その後段には、同じく1―メチル―1―エチル―2―(2―メトキシ―5―スルフアモイルベンズアミドメチル)ピロロリジニウム・メチルスルフエイト、すなわち、スルピリドのジメチルスルフエイトによる4級塩の製法が記載されていることが一応認められる。

そして、上記の記載によればスルピリドの酸附加塩の開示があることは明らかである。

しかし、前示のように同じ補正のさいに他の実施例として光学異性を意識してd体とl体とのスルピリドをそれぞれ開示しながら、他方ではこのように特に光学異性に関し特定せず単にスルピリドの酸附加塩の製造方法を開示しているような場合には、後者をラセミ体スルピリド(の酸附加塩)に関する開示であると解するのはやや困難である(そこに融点その他の物理的化学的性質が明示され、それがラセミ体スルピリドであることが確認しうるような場合はもとよりそのように解しうるのであるが―本件第6次補正における実施例29の場合はその好例である―、そのような手がかりもないような場合には、むしろ、同時に他の実施例として開示されているd体スルピリド、l体スルピリドのいずれかまたは双方についての酸附加塩の製法を開示したにすぎないと考える方が妥当であるように思われる。)。

したがつて、当裁判所は、申請人の前記主張には必らずしも同調することができない。しかし、いずれにせよ第1次補正の段階で実質的にはラセミ体スルピリドの開示があつたと解しうることは前記のとおりである。

(3)  はたしてそうだとすると、本件特許発明は少くとも第1次補正の段階ですでにラセミ体スルピリドの製造方法についてもその技術的範囲に包含していたものであつて、これと異なる前提に立つ被甲請人らの前記主張は失当というほかない。

したがつて、前記3の結論は結局正当である。

6  よつて、申請人の本件仮処分における被保全権利はこれを一応認めることができる。

第2保全の必要性

当裁判所は、本件のような仮りの地位を定める断行の仮処分は特段の必要性がある場合を除き、たとえ被保全権利が疏明されても、みだりにこれを発すべきではないと考える(民訴法760条)。

ただ、本件は、被申請人らが昭和53年12月イ号薬品製造試販をはじめたのを察知するやいちはやく翌54年1月23日には仮処分申請に及んだ事案であつて、損害の拡大を未然に防止するという仮処分の一つの目的にもよくかなつた経過をたどつており、また、申請人がすでに藤沢薬品(ドグマチール)、住友化学(アビリツト)、三井製薬(ミラドール)というような大手薬品業者に対価をえて本件特許権の実施を許諾し、スルピリドの製造販売を認めていることや、他方、被申請人らは前記のとおり未だジーグル錠(スルピリド)の販売実績を十分挙げていない段階であり(昭和54年度の販売目標50万錠も達成しえていない情況であるという)、かつ両社はいずれも著名な商社である長瀬産業株式会社を軸としたナガセグループに属し、被申請人帝国化学産業は資本金1億2000万円、従業員265名を擁し、年商は40数億円に達する規模の会社、被申請人ナガセ医薬品も資本金4800万円、従業員100名を擁し、年商30億円弱の会社であり、イ号薬品の販売高は取扱全医薬品の販売高の上位15品目にも入つていないのが実情で、いまイ号薬品の製造販売を仮りに停めたとしてもそれによつて会社の存在自体を危うくするような事態は考え難いこと等の事実が疏明および当事者双方の主張の全趣旨によつて一応認められ、その他一般にこの種医薬品の製法発明にかかる特許権を得るためには膨大な規模の試験が要求され、莫大な出費を要すること等の事実をも彼此総合すると、結局、本件仮処分は、申請人に相当の保証金をたてさせることを条件としてその必要性を肯認すべきであると考える。

第3結論

よつて、申請費用の負担につぎ、民訴法89条、93条を適用し、主文のとおり決定する。

(畑郁夫)

〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例